2022/8/29(月) 2学期始業式での校長あいさつ「話には場や前提がある」
この夏休みは移動制限なしとなりましたが、特に若い人の感染が多くなり、本校でも多数の感染者が報告されました。本人や身近な人に感染が確認された人は、多くはご家族も不自由な生活を余儀なくされ、元の生活に戻るまで大変な思いをしたこととお察しします。
ことしの全国高校総体は四国での大会になりました。アーチェリー部・陸上競技部にあっては、栄えある全国大会進出でしたが壮行会も開くことができませんでした。アーチェリーは香川県丸亀市・Pikaraスタジアムで行われ、2年の吉岡佑斗さんが個人戦で499点と健闘しました。
陸上競技は徳島県鳴門市・ポカリスエットスタジアムで行われ、3年の吉永葉月さんが女子200m・25秒02の記録をだし準決勝に進出、さらに女子の4×400mリレーでも健闘しました。これとは別に、400m障害、3000m障害、リレー種目などで日本選手権の関東予選である関東陸上競技選手権大会にも進出、山梨県甲府市のJIT リサイクルインクスタジアムで競技会が開かれ健闘しました。
きょうは、「話には場や前提がある」という話をします。
あたりまえのことですが、発せられたことばには背後の条件がたくさんあります。日本語は主語を抜く言語ともいえるわけで、意味を考えるうえで場面やことばの背後にある状況が非常に大切になります。日本語のこのような性質は『枕草子』『源氏物語』の時代から千年以上変わっていません。『枕草子』も『源氏物語』も平安時代の宮廷という狭い人間関係でつくられた作品ですし、読み手も価値観や文化を共有する人々ですから、主語などなくても「誰が」ははっきりわかりますし、意味も取り違えようがありません。授業で扱う古文は背景や条件がわからない現代人が読むのですから難解なのは当然です。
古文でなくても、例えば、二者面談の場面で担任から「この大学は受かるかもしれないぞ」と言われたとします。当然、「本気になって勉強するならば」という前提があります。逆に「この大学は無理かもしれないぞ」と言われたとしたら、無理だから受験をやめろと言ったのではなく、(これまで同様に)勉強に身を入れないならば合格は無理、だから(あきらめるのはではなく)今から懸命に勉強せよ、と言っているのです。
こう言われて、家に帰り、あったはずの前提を飛ばして「担任に大学は受かると言われた」と話す生徒に接したことがあります。その後熱心に勉強をしていたという話は聞かなかったので、たぶん無意識で、本人も気づいていないと思います。それは、自分は傷つかないで済むよう責任は外部に投げ、都合が悪くなったとき「自分は被害者だ」といえるように行動しているということです。仮に大学に落ちてしまっても傷つかずに済む。自分の努力不足ではなく「受かるって言ったじゃないか」というアドバイスが悪かったと言えるわけです。意識せずこういう言い方をしてしまう人は、早いうちに気づかないと、のちに必ず人間関係がこわれます。
こんな人もあります。AさんとBさんが歌を歌った。Aさんは大変じょうずだった。そのことを先生がBさんに「Aさんは歌がじょうずだね」と言ったとします。これも、無意識でしょうが、「あなた(=Bさん)はへただねえ」と言われたと解釈するBさんがときどきいます。このBさんが家で「先生から歌がへただと言われた」と言えば、聞いた人は当然心配して、「先生が生徒に『歌がへた』とは何事か!」と怒る展開が予想できます。
無意識の場合もありますが、悪意を持ってわざと主語や「場」や「前提」を外したとしても聞いた人にはわかりません。内容によっては人間関係を破壊します。「主語」や「場」を入れない話は無責任きわまりないからです。「なにが」「どうした」か、主語と述語の関係がはっきりわかる文にすること。一つの文には要素をひとつだけにして、一つの文に内容をあれこれ盛り込まないこと。この二つを注意するだけで、人間関係の破壊はかなり防げるはずです。
聞き手の側も同じで、話を聞いて「脊髄反射」してしまうと大やけどをするかもしれません。人間関係と状況をまず判断しないと真意が判断できません。SNSでときどき、そんなつもりはなかったのに炎上した、うちうちの話のつもりだったのに拡散されて人間関係が壊れたという話を聞きます。文化や価値観を共有すると思っているのは思い込みにすぎないかもしれません。グローバル社会など持ち出すまでもなく、現代は平安時代の宮廷とは異なるということです。
2学期、3年次生は具体的な進路実現の時が迫ってきます。最後まで全力で頑張ってください。1・2年次生にとっても勉強や部活動に大いに飛躍する学期です。期待しています。