豊高校長室だより

2023/3/11(土) 豊岡高校75期生に向けて、卒業式での校長式辞です

 近年にはめずらしい、冬らしい冬でしたが、確かに春の訪れを感じる陽気となりました。このよき日に、保護者のみなさまと御一緒に豊岡高等学校75期310名の卒業をお祝いできることを喜びたいと思います。みなさんは、入学式の翌日から休校となるなど、かなりの部分で制限つきの不自由な生活を余儀なくされました。厳しい環境に耐え努力する姿には、逆にこちらが励まされてきました。

 ことしは卯年ですが、一回り前の卯年きょう3月11日、東日本大震災が起きました。全国で約二万人が命を落とし、今なお2500人もの行方が分かっていません。埼玉県にも被害が出て、卒業式ができない学校もありました。1400名もの福島県双葉町の方々が加須市の旧騎西高校に避難、長い人は三年もの避難生活を送られました。当時の高校生はまもなく30歳になりますが、埼玉の高校生もボランティア活動をはじめできるだけのことをしました。12年たった今でも加須市には双葉町役場埼玉支所が残され住民の支援にあたっています。被災された方々へ思いをいたしたいと思います。

 さて、この機会に、「判断と決断」について考えたいと思います。

 日本人は感情に流されやすく、論理的に考えるのが苦手だ、といわれることがあります。

 ひとつの例です。苺、大根、バナナ、ジャガイモ、スイカがあるとします。二つのグループに分けるとすると、あなたはどのように分けますか?

 Aを【苺】【スイカ】【バナナ】、Bを【大根】【ジャガイモ】と分けるとします。理由は、Aは地上で育つ、Bは土の中で育つ、です。分け方はこれだけではありません。根拠を示すことができればほかの分け方でもよいのです。表記されている文字がカタカナか漢字かでも分けられます。野菜か果物かという分け方も考えられますが、その前に「野菜」とは何かを決めておく必要があります。論理的に考えるためには、枠組みを決め、限定する必要があります。苺、スイカ、バナナは果物だと思うでしょうが、栽培方法に注目するとイチゴやスイカは野菜に分類されるそうです。どの組み合わせでグループに分けたかより、何を根拠にして判断し、分けたかが大事なのです。

 このように、論理は見方や枠組みによって変わる、つまり論理そのものがどんな場合にも通用する普遍的なものでないことをまずおさえておきたいと思います。

 はじめに「日本人は」と言いましたが、そもそも日本人とはどういう人を指すのでしょうか?

 考え、判断するためには枠組みを決める必要があります。枠組みに入るのは誰で、誰が排除されるのでしょうか。それをせずに意見を聞いたところで何となく感じるという以上のものは出てきません。「日本で生まれた」「日本語が話せる」「日本文化に詳しい」「日本国籍がある」…。見方によって、どのように枠組みを設定するかによって、「感情に流されやすい」「論理的思考が苦手」という結論が導けない場合も予想できます。「論理」が普遍的なものでない以上、論理を組み立てる力、論理的に考える力もまた普遍的ではないことになります。

 論理的に考え判断した結果、異なる行動をすることがあります。どの枠組みを選ぶかは「判断」ですが、そのうえで実際にやるかやらないかを決めるのは「決断」です。だから決断は「いい」「悪い」を超えたところにありますし、逃げることも、誰かに代わってもらうこともできません。責任も自分で背負うしかないのです。

 「本当の自分を探す」という人がいますが、「探す」という以上、「どこかにあるはず」という見方に立っています。しかし、本当の自分などありません。あるときには優しい面もあり、ある環境では醜い面もあるというように、その時その時でころころ変わるのが「自分」のはずです。いろいろな自分を受け入れ、その前提に立って決断していかなくてはならないのです。

 これから、みなさんは決断の連続の中で生きることになります。多くの枠組みを使いこなしながらも、自分の問題として決断することが必要です。

 「つら(辛)い」という漢字の上の部分に一本の横棒を加えると「幸せ」という字になります。見方を変えれば簡単に枠組みは変わることを知っておくといいと思います。

 保護者のみなさまには本日のお慶びとともに、これまで本校にお寄せいただいた御厚情に感謝申し上げます。今後も、時代に立ち向かい、自ら考えて行動できる人物を育てるという期待に応え、教職員一丸となって卒業生や生徒にとって心のよりどころと誇れる学校づくりに努めてまいります。

 75期生の前途が健やかで幸多きことをお祈りし式辞といたします。

  令和5年3月11日              埼玉県立豊岡高等学校長 内田 正俊